先日、恩師の告別式に参列した際、自分自身の身だしなみについて深く反省する出来事がありました。急な訃報だったこともあり、私は仕事で愛用していた少し大きめのダイバーズウォッチをつけたまま会場に向かってしまいました。喪服に着替え、鏡を見た時にはそれほど違和感を感じなかったのですが、いざ受付で芳名帳に記入する際、袖口から覗く太い金属のベゼルと、光を反射するサファイアガラスが、自分でも驚くほど場違いに感じられたのです。周囲の参列者を見ると、多くの方が時計を外しているか、あるいは非常に細身で目立たない黒い革ベルトの時計を身につけていました。特に焼香の場面では、手を合わせた際、目の前に自分の時計が位置することになります。その輝きが、静かな祈りの時間を妨げているような気がして、私はいたたまれない気持ちになりました。葬儀という場は、自分を飾る場所ではなく、故人の人生を尊重し、別れを惜しむ場所です。時計1つにしても、それが「道具」としての役割を超えて「装飾品」として主張し始めた瞬間、それはマナー違反になるのだと痛感しました。私はその場で時計を外し、喪服のポケットに収めましたが、それ以降、自分の中で弔事用の腕時計というものを真剣に考えるようになりました。後日、私は葬儀専用として、一切の無駄を省いた黒革ベルトの薄型アナログ時計を購入しました。それは驚くほど静かで、主張のない時計です。しかし、その控えめな存在感こそが、弔事という特別な時間にふさわしい「正装」の一部なのだと今では理解しています。もし、これから葬儀に参列する予定がある方がいれば、一度自分の腕元を客観的に見てほしいと思います。その時計は、遺族の悲しみに寄り添う姿として適切でしょうか。時間はスマートフォンで確認すれば良いという考え方もありますが、大人のたしなみとして、場にふさわしい時計を選ぶ、あるいは「あえて持たない」という選択をすることも、大切な供養の形なのだと学びました。この経験を忘れず、次からは万全の準備で臨みたいと思います。
悲しみの席で気づいた腕時計のマナー